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【マリンネット探訪 第68回】
「共存共栄」の思いを受け継ぎ
離島航路を通じて暮らしと地域を支える
< 第584回>2026年08月24日掲載 


マルエーフェリー株式会社
常務取締役 事業本部長 東京支店長
有村 格之進 氏













――鹿児島と奄美・沖縄を結ぶ旅客船航路と東京、神戸、北九州/沖縄を結ぶRORO船航路を運航し、人々の暮らしや物流を支えるマルエーフェリー株式会社の有村 格之進様です。マルエーフェリーの概要と特色について、ご紹介をお願いいたします。

 当社の創業は曾祖父までさかのぼります。曾祖父は与論島出身でしたが、奄美大島へ丁稚奉公に行き、その後、奄美大島で大島紬や黒砂糖などの製造・卸を手掛けるようになりました。それらを他の島々や鹿児島へ運ぶために船が必要となったことが、海運業を始めたきっかけだったと聞いています。その後、さまざまな貨物を運ぶようになり、有村商事という名で海運業を展開していきました。奄美群島が日本へ復帰した年と同じ1953年に有村商事の運輸部門が独立して現在のマルエーフェリーの前身である大島運輸が設立され、鹿児島と奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島を結ぶ旅客定期航路事業を開始しました。
 1970年代からはカーフェリーを投入し、フェリーを中心に事業を展開していましたが、1998年には3,000総トン型のRORO船の運航も開始しました。さらに2014年には10,000総トン型の新造RORO船を投入し、現在はフェリー2隻とRORO船4隻を保有・運航しています。
 フェリーは、鹿児島から奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島を経て、沖縄本島の本部、那覇までを結ぶ鹿児島航路に配船しています。
 RORO船は、東京から名古屋、油津・志布志を経て那覇までを結ぶ東京航路、神戸・大阪から志布志、奄美大島を経て那覇までを結ぶ阪神航路、北九州と那覇を結ぶ北九州航路の3航路で運航しています。
 フェリーとRORO船の運航を通じて、旅客輸送と貨物輸送の両面から、海上交通と物流のインフラを担っています。



――RORO船を大型化された背景は。

 物量が増え、フェリーでの対応に限界が出てきたことです。東京や阪神方面からより多くの貨物を運びたいというニーズがあったため、トレーラーやシャーシ、コンテナなどを積載するスペースをより広く確保することができるRORO船への移行を決断しました。
 また、LCCの就航などによって、東京や大阪からフェリーを利用する旅客需要が変化してきたことも要因の一つです。「自分の車で旅をしたい」というお客様の声もあったので難しい判断でしたが、移動手段を取り巻く環境の変化などを踏まえ、順次フェリーをRORO船へ切り替えていきました。



――「マルエーフェリー」という社名には、どのような由来があるのでしょうか。

 奄美の“A”、有村家の“A”など諸説ありますが、大島運輸の時から、地元の方々から「マルエーさん」と呼ばれてきましたので、その愛称を社名にしたと聞いています。


――御社がサービスを展開されている離島航路は、地域住民の生活や物流を支える重要な役割を担っているかと思います。離島航路が果たしている役割や現状の課題、またそれらの課題に対する御社の取り組みについてお聞かせください。

 離島航路には2つの役割があると考えています。一つ目は地域住民の生活を支えること。2つ目は地域経済を支えることです。
 まず、地域住民の生活を支えるという点では、食料品や生活物資を安定的に届ける役割があります。離島への輸送では、コンテナよりも小さなロットで運んでほしいというニーズがあるため、細かな貨物については当社でコンテナに仕立てて各島へ輸送しています。
 特に台風シーズンには船を長期間運航できず、島内のスーパーから食料品がなくなることもあります。そうした状況を目の当たりにすると、離島航路が生活に欠かせないインフラであることを実感します。
 また、物資を運ぶだけでなく、島民の皆さまの生活の足としても重要な役割を担っています。離島では受けられる医療に限りがあるため、島外への通院に船を利用される方もいらっしゃいます。日常的に利用される方の中には、当社の船員と顔見知りになる方もおり、地域の皆さまとの交流も生まれています。
 もう一つの地域経済を支えるという点では、島で生産された農畜産物などを本土へ運ぶ役割があります。一例ですが、徳之島はばれいしょの一大産地で、収穫されたばれいしょを本土へ輸送しています。また、奄美群島では肉用牛の繁殖も盛んで、島で育てられた子牛をフェリーで鹿児島まで運んでいます。こうした輸送を通じて、島の産業に携わる方々の暮らしや地域経済を支えることも重要な役割であると認識しています。



――離島航路を取り巻く事業環境について、どのような課題を感じていらっしゃいますか。

 離島に限ったことではありませんが、人口減少です。奄美群島でも人口減少が進んでおり、今後さらに減少すれば、旅客だけでなく生活物資などの輸送需要にも影響が出てくると考えています。また、人手不足も顕在化しており、当社グループで運営している奄美大島のホテルでも人材確保は大きな課題です。島内には大学や専門学校がないため、進学を機に島外へ出て、そのまま戻ってこない若者も少なくありません。観光をはじめ、島の産業を担う人材が減っていくことには危機感を抱いています。


――ドライバー不足や働き方改革を背景に、モーダルシフトへの関心が高まっています。こうした物流を取り巻く環境の変化をどのように感じていますか。また、御社ではどのような取り組みを進めていますか。

 モーダルシフトの動きは10年以上前からありますが、近年は、トラックドライバーの働き方改革なども背景に、船を活用した輸送についてご相談をいただくことが増え、実際の輸送につながるケースも多くなっています。RORO船の場合は、フェリーのようにドライバーが乗船しないため、貨物を運ぶためのトレーラーやシャーシを確保する必要があります。当社では、お客様からのご要望に速やかに対応できるよう、トレーラーやシャーシの貸し出しにも対応しています。
 また、最近では鹿児島県の志布志に倉庫やヤードを備えた物流センターを設置しました。従来は、お客様に港まで貨物を持ち込んでいただくことが中心でしたが、物流センターを活用することで、協力会社と連携したバンニングなども提案できるようになり、サービスの幅が広がっています。
 また、荷主側の意識にも変化を感じています。以前は集荷先でのドライバーの待機時間が課題となっていましたが、最近では荷主側から「待機時間を減らすためにどうすればよいか」と相談をいただくなど、関係者が一緒になって課題を解決しようという動きが出てきています。物流を取り巻く環境は、少しずつ改善に向かっていると感じています。



――人材の採用についてはいかがでしょうか。

 鹿児島にゆかりのある方からの応募が多い傾向にありますが、鹿児島に縁のない方から応募いただくこともあります。例えば、今年入社した社員の一人は関西出身です。旅行が趣味で、自転車で各地を巡る中、当社のフェリーを利用して沖縄を訪れたことがあったそうです。その時の乗船をきっかけに当社に興味を持ち、「この会社で働きたい」と応募してくれました。
 一方、人材確保は年々難しくなっていると感じており、進学などを機に東京、大阪、福岡などの都市部へ出る若者が多いことは、採用面での課題です。こうした中、当社では転勤のない「地域限定総合職」を新たに設けるなどの取り組みも進めています。



――旅客船の運航においては、観光需要への対応も重要な役割の一つかと思います。近年の旅客需要や観光を取り巻く環境の変化、また、それに対する御社の取り組みについてお聞かせください。

 コロナ禍前後で、お客様のニーズは大きく変わったと感じており、特に個室を希望されるお客様が増えました。当社のフェリーでは、複数のお客様でご利用いただく2等寝台がスタンダードですが、個室から先に予約が埋まっていく傾向にあります。旅行会社からも「個室を確保できますか」というご要望をいただくことが多くなっています。また、通信環境に関しては、SNSの利用などが広がる中、船上でもインターネットを利用できる環境が求められるようになりました。当社ではフェリー2隻にスターリンクを導入し、航海中の通信環境の改善を図っています。
 このほか、観光客を増やすための取り組みとして、奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島などを巡っていただける周遊きっぷの販売や、船のチケットとホテルをセットにしたツアーの企画PR動画の制作など、少しでも多くの方に島を訪れていただけるよう、さまざまな取り組みを行っています。



――これまでのご経歴についてご紹介をお願いします。

 出身は鹿児島ですが、幼稚園から大学卒業まで東京で過ごしました。


――学生時代はどのように過ごされましたか。

 小学校から高校まで当時は自宅も学校も吉祥寺で、吉祥寺から出ることなく生活していました。そのまま大学へ内部進学もすることができましたが、このままずっと同じ環境にいることに不安を感じ、別の大学への進学を決意しました。新しい環境に身を置き、新たな人間関係を築きたいという思いが強かったことも理由の一つです。
 大学進学後は、新たな環境で緊張もありましたが、テニスを通じた良い仲間に巡り合うことができました。今でも時々食事をするなど、交流が続いています。





――大学ではテニスに打ち込まれていたのですね。

 大学生になってから始めました。元々小学生の頃から水泳をやっていたので、中学でも水泳部に入部し、高校でも続けたかったのですが、水球部しかなく、球技が苦手だったこともあって断念しました。それでも球技に挑戦してみたいとの思いから、大学ではテニスサークルに入りました。サークルの練習はかなり厳しかったのですが、お互いに教え合い、高め合う中で、個人競技であってもチームワークが大切だということを学びました。テニスは最近まで続けていましたが、アキレス腱を切ってしまい、しばらくお休みしています。



――就職活動はどのような業界を志望されていましたか。

 私自身、直接人を笑顔にする仕事というよりも、自分が携わった仕事を通じて、結果として誰かを笑顔にできるような仕事がしたいと考えていました。そのため、就職活動ではインフラや金融関係の企業を中心に受け、その中で最終的に選んだのが損保ジャパンでした。入社後は5年間大阪で法人営業を担当しました。就職を機に初めて東京を離れることになり、非常に緊張しましたが、周囲の方々に温かく迎えていただき、社会人としてさまざまなことを教えていただきました。
 その後、海外駐在の話をいただいたことをきっかけに、家業も含めて自分の将来について改めて考えました。駐在を経験してすぐに退職するのは会社に申し訳ないですし、帰国後も数年は勤めることを考えると、家業に戻るのは30代後半になります。その頃には父も60代後半になっていることを考え、決断するのであれば早い方がよいと判断しました。会社にもできるだけ迷惑をかけたくないという思いもあり、そのタイミングで家業に戻ることを決めました。



――家業を継ぐことは、以前から意識されていたのでしょうか。

 子供の頃に進水式に出席する機会があり、祖父や父が船関係で働く姿を見ながら、「自分も将来この仕事をするのかな」と考えていたことはおぼろげながら覚えています。


――異なる業界から家業に入り、どのようなことを感じましたか。また、入社後はどのような取り組みを進めてこられたのでしょうか。

 大企業から中堅企業に移り、タイムカードでの勤怠管理や人事制度、決裁のしくみなど、多くの面で違いを感じましたが、まずは自分自身もその仕組みを経験してみようと考え、その上で当社に合った形へ少しずつ見直していきました。
 入社当時は経営管理室長として、営業をはじめ、総務・経理、人事など、幅広い業務を経験させていただきました。また、鹿児島県内の若手経営者の集まりにも積極的に参加し、人脈を広げていきました。
 2017年には総務部長となり、人事制度の改革などを少しずつ進めてきました。2023年からは、DXなど新たな取り組みを進める上で、さまざまな情報に触れやすく、お客様と直接お会いする機会も増やすことができると考え、東京に拠点を移しました。



――人生の転機についてお聞かせください。

 中学3年生の時に経験した生徒会長です。自分の人生を振り返ると、リーダーを務める機会が多かったのですが、一番初めに経験したリーダーが生徒会長でした。それまではクラスでも目立たない存在でしたが、当時の担任の先生から立候補を勧められました。最初は「絶対に無理です」と断ったのですが、「大丈夫」と背中を押され、その言葉を信じて立候補を決意しました。とても信頼していた大好きな先生だったからこそ、挑戦してみようと思えたのだと思います。気づけばトップ当選で生徒会長になっていました。実際に生徒会長を経験してみると大変面白く、さまざまな役割の人がいる中で、どうすればうまくいくのかを試行錯誤したり、関係者と議論を重ねながら物事を進めたりすることに、やりがいを感じました。この経験をきっかけに、リーダーという役割を前向きに捉えられるようになり、それ以降は、何かを任されたり声をかけてもらったりしたときには、まず引き受けてみようという姿勢で取り組んできました。
 その後、大学のゼミやアルバイトなどでリーダーとしての経験を重ねる中で、自分なりのリーダー像を形づくっていきました。自分一人の力でできることには限りがあるので、周囲の人に頭を下げ、助けてもらいながら物事を進めてきました。



――「座右の銘」についてご紹介をお願いいたします。

 「おかげさま」という言葉です。物事がうまくいった時には、取引先や社員をはじめ、関わってくださった方々のおかげだと自然に感じます。一方で、うまくいかなかった時にも、その経験があったからこそ学べたことや、「次は別の方法でやってみよう」と気づくことがあります。私にとって「おかげさま」は、どのような状況でも前向きに捉えることができる好きな言葉です。

 また、経営に関わる立場として日々の判断の指針としているのが「共存共栄」です。当社の社是であり、曾祖父の有村治峯(ありむら はるみね)が掲げた理念でもあります。会社だけが発展するのではなく、社員とその家族、地域の方々も共に発展していくことの大切さを表した言葉で、代々受け継がれてきました。私自身も経営におけるさまざまな判断において、関係する皆さまの目線で物事を捉えるための軸にしている言葉です。



――心を動かされた出来事についてお聞かせください。

 子供の成長には、日々心を動かされています。
 小学生の息子は今、少年野球をやっているのですが、ある時、頭にデッドボールを受けてしまいました。それ以来、野球が好きで練習には行くものの、試合になると足がすくんでしまうことが続いていました。それでも練習を続け、ある試合でヒットを打つことができました。息子が自分なりに壁を乗り越えていく姿に大変感動しました。私はその時審判をしていたので、後ろからその姿を見ながら、心の中で大きくガッツポーズをしました。
 また、8カ月の娘も、一生懸命ハイハイで前に進もうとする姿を見ていると、人間が本来持っている生命力や生きる力を感じ、心を動かされます。



――今後の展望についてお聞かせください。

 社員が、自分の家族や子供にも「この会社で働いてほしい」と思えるような会社にしていきたいです。当社では、社員のご家族や親族が入社するケースもあり、昨年も祖父が当社に勤めていたという方が入社しました。また、学校卒業を機に地元へ戻り、親御さんと同じ当社を就職先として選んでくださる方もいます。
 これは、当社で働く社員やそのご家族に信頼していただけているからこそ、次の世代の入社にもつながっているのだと思います。これからも、何世代にもわたって「ここで働きたい」と思っていただける会社であり続けたいと考えています。
 また、経営者としては、常に未来に思いをはせ、世の中の流れを捉える視点を持ち続けたいと思っています。社員の皆さんがそれぞれの現場で日々の仕事に向き合っているからこそ、経営者はその少し先に目を向け、会社の未来について考えることが大切だと考えています。



――思い出に残っている「一皿」についてお聞かせください。

 吉祥寺にある「洞くつ家」の家系ラーメンです。学生時代は毎週のように通い友人と他愛もない話をしながら麵をすすっていました。「油少なめ、麺かため」が定番です。
 また、大阪にある「豚々亭(とんとんてい)」の「麵入り豚もやし定食」も大好きです。大阪駅前の駅前第2ビルの地下にあるお店で、私が保険会社に勤めていた時は週1回必ず足を運んでいました。夜は上司を誘い、ビールを飲みながら仕事の悩みを聞いてもらった思い出の味です。今でも大阪に立ち寄る際は必ず訪れるお店です。








――心に残る「絶景」について教えてください。

 与論島の大金久(おおがねく)海岸です。沖合には、干潮時だけに現れる白い砂浜「百合ヶ浜」があり、遠浅の海を渡ってそこまで行くことができます。空と海の青、砂浜の白のコントラストがとても美しい場所です。毎年とはいきませんが、節目ごとに与論島を訪れています。何度訪れても、その景色を目の前にすると心が洗われるような感覚になります。



 
【プロフィール】
有村 格之進(ありむら かくのしん)
鹿児島県出身
2010年3月 上智大学 卒業
2010年4月 損害保険ジャパン株式会社 入社
2015年3月 損害保険ジャパン株式会社 退職
2015年4月 マルエーフェリー株式会社入社
      経営管理室長 就任
2017年4月 総務部長
2023年4月より現職


■マルエーフェリー株式会社(https://www.aline-ferry.com/

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